長崎県長崎市の諏訪神社の祭礼であり、毎年10月7日から10月9日まで開催される。
例大祭は「長崎くんち」と呼ばれ、「龍踊(じゃおどり)」「鯨の潮吹き」「太鼓山(こっこでしょ)」「阿蘭陀万歳(おらんだまんざい)」「御朱印船(ごしゅいんせん)」など、ポルトガルやオランダ、中国・ベトナムなど南蛮、紅毛文化の風合いを色濃く残した、独特でダイナミックな演し物(奉納踊)を特色としており、傘鉾、曳物、担ぎ物など、京都や堺の影響もうかがえる。
荘厳な御神幸と国際色豊かな奉納踊により日本三大祭と称され、「長崎くんちの奉納踊」は、国の重要無形民俗文化財に指定されている。
放生会(ほうじょうや)は、福岡県福岡市東区の筥崎宮で毎年9月12日から9月18日まで開催され、「万物の生命をいつくしみ、殺生を戒め、秋の実りに感謝する」お祭りです。その起源は「合戦の間多く殺生すよろしく放生会を修すべし」という御神託によるもので、千年以上続く最も重要な神事とされている。
博多どんたく、博多祇園山笠と並ぶ博多三大祭りの一つであり、2年に一度(西暦の奇数年)、御神幸が行われる。この御神幸(筥崎宮神幸行事)は、福岡市の無形民俗文化財に指定されている。
熊本県 妙見宮祭礼神幸行列
八代妙見祭の神幸行事は、毎年11月22日(お下り)と11月23日(お上り)に開催される。
熊本県八代市にある八代神社の祭礼に行われる行事で、北極星と北斗七星を神格化した妙見神に対する信仰に基づき、神社の例祭は妙見祭と呼ばれている。神幸行事のメインとなる11月23日には、獅子や奴、木馬、笠鉾、亀蛇など多彩な行列が神輿に供奉して賑やかに市内を練り歩く。
八代神社は、文治2年(1186)に八代市内の現在地に建てられ、八代郡の惣鎮守として崇敬を集めてきた。明治初期の神仏分離によって現在の名称に改称する以前は、妙見宮と称されており、平安時代に横嶽の山頂と山麓に創建されたとの伝承のある上宮と中宮に対し、下宮として位置づけられている。
妙見祭は、早くは中世に八代を支配した相良氏の『八代日記』永正12年(1515)の条に、行列を伴う祭礼としてその記述がみられるが、近世になり、加藤氏改易後、寛永9年(1632)に細川忠興(三斎)が八代に入部すると、妙見宮は細川家の守護社となり、その祭礼も隆盛した。忠興の没後は、八代城主となった松井氏が妙見宮と祭礼の運営を継承し、元禄年間(1688~1703)には、財力を蓄えた城下町の商人層が祭礼に参加して数多くの出し物が増え、祭りの風流化が進んだ。18世紀後期から19世紀初めの製作が推定される『妙見宮祭礼絵巻』(松井文庫所蔵)には、現在の神幸行事にみられる要素がほぼ出揃っている。
行事の期日は、かつては旧暦10月17、18日であったが、明治5年の改暦以後、新暦で行われるようになり、平成5年から現行の期日になり、現在に至っている。
祭祀組織は、八代神社の氏子町内と旧城下の地域を中心に構成され、八代妙見祭保存振興会の差配のもとに各町内や参加団体が連動し、行事が執行される。
神幸行事は、11月22日の「お下り」と翌23日の「お上り」を中心に行われる。「お下り」は、22日午後、神馬を先頭にした神輿の行列が八代神社を出発する。御旅所である塩屋八幡宮までの約6㎞の道のりを、市街地を東西に縦断するかたちで練り歩く。塩屋八幡宮は、細川忠興が宇佐八幡を勧請し、創建したと伝えられており、行列は夕方にこの八幡宮に到着する。
翌23日の「お上り」は、早朝に塩屋八幡宮を行列が出発し、市内を練り歩きながら八代神社に向かう。「お上り」のとき行列は、多彩な出し物が連なる1.5㎞以上に及ぶ長大な編成となる。獅子を先頭に、奴、木馬、鉄砲、毛槍、白和幣、籠、笠鉾菊慈童、神馬、神馬奉行、甲冑武者が続き、神輿の一行の後に、本蝶蕪、蘇鉄、西王母、猩々、蜜柑、恵比須、松、迦陵頻伽の八基の笠鉾、流鏑馬、亀蛇、飾馬が続く。これらの出し物の中には、それを出す役割が八代の旧城下の地域に固定されているものがあり、獅子は中島町、奴は高子原村、亀蛇は出町から出すことが慣例となっている。笠鉾も、宮之町をはじめ九つの旧城下の町内から曳き出される。なお、行列のうち藩政時代に武家側から出していた奴や鉄砲、毛槍などは、明治以降途絶えていたが、昭和60年代から復活し、行列に加わっている。
笠鉾は、六角形あるいは八角形の二層の笠を持つ楼閣型の構造で、高さは4~5㍍に及ぶ。頂部には、富貴や不老長寿などを題材にした飾り物が付けられ、周囲は、技巧を凝らした欄間や豪華な水引幕で覆われている。笠鉾は、古くは架台に担ぎ棒を2本さして担ぐ形式であったが、現在は2輪の曳く形式となっている。
亀蛇は、亀と蛇を合わせた想像上の動物で、妙見神が渡来したときの乗り物であると伝えられている。全長約3メートルの大きさで、ガメの呼称で親しまれており、5人の男性が中に入って首を左右に振ったり、上下に伸縮させたりするなど巧みに動作を操る。
獅子は、中国風の衣装を用いた雄雌一対で、木馬は、華やかに飾られた馬の造り物を子どもが着け、乗馬姿に装った出し物である。
木馬や鉄砲、毛槍、白和幣、籠、甲冑武者などは、いずれも数十名からなる集団的な編成で、八代市内の子どもや中学・高等学校の生徒、有志の団体が担当している。
八代神社に着いた行列は、出し物ごとにヤド(宿)と呼ばれる個人宅や公民館などで休憩し、午後になると、神社の南を流れる水無川の河原に向かう。この場所は、砥崎河原と呼ばれ、川を挟んで両側に桟敷席が設けられている。砥崎河原では、獅子や奴、亀蛇の演舞、飾馬の奉納などが行われる。飾馬は、花馬とも呼ばれる、美しく飾られた馬で、勢子に伴われて河原を勇ましく疾走する。また、亀蛇は、くるくると回転したり、水しぶきをあげながら川に入ったり、観客席に駆け上がったりと暴れ回る。
こうした砥崎河原での行事の途中、獅子と神馬、神輿などは、再び行列を組んで水無川の中流域にある中宮跡に向かい、その後、八代神社に戻る。そのほかの出し物は、河原での行事が終了するとそれぞれの町内に帰り、神幸行事は終了する。
この行事は、八代の城下町を支配してきた歴代城主の庇護のもとに発展し、近世には、武家主導の祭礼から町人層の参加によって、多彩な祭礼風流の出し物が登場する現行の形に整えられ、伝えられてきた行事である。近世の城下町に発達し、山・鉾・屋台などが巡行する都市祭礼は、全国各地に伝承されているが、本件は、この種の祭礼行事の典型例の1つと考えられるものであり、九州南部を代表する大規模な祭礼行事でもある。
また、妙見信仰に由来する亀蛇の練り歩きや独特の形態をとる華麗な笠鉾の巡行は、地域的特色が顕著であり、多彩な出し物から構成される行例が神輿に供奉して氏子域を練り歩く行事は、我が国の祭礼文化を考えるうえで重要である。
※平成23年3月9日国重要無形民俗文化財に指定。
※平成28年12月1日(日本時間)全国32の祭りとともに「山・鉾・屋台行事」としてユネスコ無形文化遺産に登録。