妙見データベース
掲載については、八代市教育委員会編集・発行のやつしろ文化財シリーズ(3)、八代文化財調査報告書第九集 「妙見祭笠鉾」-八代神社祭礼神幸行列笠鉾等基本調査報告書-を基にしております。掲載内容の無断転載等はお断りいたします。
妙見神の由来
妙見神上陸の竹原の津跡 |
星座の象嵌がある四寅剣 |
北辰信仰のもとになる北極星と北斗七星 |
妙見宮実紀や社記などによりますと、天武帝白凰9年(680)の秋、中国明州(寧波)から妙見神社が目深検校・手長次郎・足早三郎の三人の形と化して亀蛇の背に乗って海を渡り、八代郡土北郷八千把村竹原津に上陸し、この地に約3年間仮座したのが初りと伝えられています。またこの中国渡来説の他、妙見神は百済国聖明王の第三皇子琳聖太子であるとの百済渡来説とがありますが、いずれも「竹原ノ津」に上陸したと伝えている点は同じです。
その後同11年(682)、益城郡小熊野村の千代松が峯に遷り鎮座しました。この跡を白木平といい、その後天平宝字2年(758)に八代郡戸北郷の横嶽ノ嶺に移り、その地に妙見上宮が創建されました。
妙見宮は北極星と北斗七星からなる星辰信仰が妙見菩薩の仏徳の中へ包摂され、妙見菩薩を本尊とする白木山神宮寺がのち天台・真言の十五坊による供僧制へと発展し、道教的作法が、のちに神道の発展に伴い神主家となり、北辰(北極星)を太一神とするものから国常立尊・天御中主神へと習合発展してきました。
妙見宮の由緒
中宮跡
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上宮跡
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妙見宮は上宮、中宮、下宮の三社があります。社伝などによると妙見上宮は八代市横嶽(三室山)の海抜四百mの山頂に、延暦14年(795)桓武天皇の勅願によって社殿が創建されています。
妙見中宮は上宮の麓、中宮川の谷の奥にあり、永暦元年(1160)3月18日、二条天皇野の勅願により肥後守平貞能朝臣が創建しました。南北十町東西一里の間、長く殺生・狩猟を禁止し、田畑四十町を寄付しました。またこの地には三重の塔がそびえる中宮山護神寺と宮寺がありました。
妙見下宮は文治2年(1186)11月15日、後鳥羽天皇の勅願によって検校散位大江朝臣高房が八代郡太田郷赤土山の下に創建したと伝えられています。伝承にも色々と疑問がありますが、中世から近世は八代郡の領主や大名の崇敬社でした。特に中世の相良氏は崇敬が篤く祭礼や鳥居などを寄進しています。
天正16年(1588)小西行長は八代郡を拝領、その後多くの神社・仏閣を破却したと伝えられ、妙見信仰も衰えていきます。
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで敗れた小西の領地は加藤清正の領するところとなりました。清正没後、八代城代加藤右馬允正方は城下町の整備・球磨川の治水事業とともに妙見宮の復興にあたり、元和8年(1622)12月殿宇を創建し田畑を寄付し崇敬社としました。
寛永9年(1632)加藤家の改易により細川忠興(三斎)が隠居として八代城に入城しました。妙見宮に参拝した忠興は伝来の四寅剣を見まして、「九曜引両之神紋社器皆是を用候間、御家之御紋と相同じきこと不思議之因縁也」と深く感じ、「社領如先規現米八石四斗七升御寄付祭礼の絶たるを継へき皆被仰出候」(綿考輯録)と言って崇敬し、寛永17年(1640)には百石の社領を寄付しました。忠興の没後、松井氏が城主格として八代城に入り、妙見宮祭礼は細川家の直祭りから松井氏代々の請祭りとなり、豪華な祭礼が行われ九州三大祭り(長崎諏訪神社・博多筥崎宮)の随一と云われるほどの盛況を呈しました。
明治初年の神仏分離令により、白木山神宮寺を首坊とする十五の天台・真言のお寺は廃止され、以後は八代神社を改称され、今日に至っています。
八代神社(旧妙見下宮)
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神幸行列の由来
妙見宮本地仏(西宮町) |
天草灘妙見ケ浦 (かつて妙見神はこの海を渡ってきた) |
相良義陽ゆかりの妙見宮の大樟 |
中世の相良氏は八代を支配するにあたり、特に神仏の崇敬が篤く、祭礼に舞神楽・流鏑馬などを奉納したり、妙見御神事に名代を遣わし、御輿を中宮まで下向する祭礼を執り行っていたことが記録に見えます。
妙見宮の復興事業は建物・神領・祭礼の三方面に対し慶長5年(1600)以来、加藤(清正、正方)・細川(忠興、光尚、綱利)・松井(興長、寄之、直之)の三氏に引き続いて行われました。特に細川忠興は八代に入城以来、在城14年間に妙見宮の復興に心魂を傾けました。寛永13年(1636)に神輿を造らせ、天井には自ら龍の絵を描いたと記録にあります。また神輿一基や祭礼の諸道具や寺社家の装束に至るまで寄付し、豪壮な祭礼神幸行列を復興させ御神事の格式を定めました。
この祭りには、社前の参道に長い桟敷を掛け、御名代に一万石以下の家老二人を毎年代り合いに差し出し、警固の侍衆・在方の役人(惣庄屋・庄屋)は鉄砲・長柄鑓を差し出し、八代一手をもって細川家直祭の祭礼を始めました。
八代郡の祈祷所として妙見宮の祭礼を盛んにし、八代郡及び八代城下の民衆とともに「天下太平・国家安全・五穀成熟」を祝い楽しみました。神領として百石を寄進して妙見宮の経済的基盤を確立しました。この復興期の祭礼は、神輿を中心としまして、その前夜に神器や祭具を奉持するおびただしい町人の列に、神主・社僧・武士が乗馬や徒歩でお供し、神馬は細川家の馬を出し、飾馬は忠興家臣団の上級侍から出す豪壮な行列でした。
忠興没後、八代城に入城した松井興長は伺いを出し、細川家の請祭りとして祭礼を引き継ぎました。松井直之晩年の元禄期、この神幸行列に百姓衆の奴・町衆の獅子・笠鉾・亀蛇などがお供することが始まり、神幸行列の再編成が行われ、ここに今日の豪華な祭礼行列の原型が成立したのです。
なお、直之は神馬を永代寄進し、また細川綱利より広大な社山と殿宇修理料米の永代寄付がありまして、妙見宮の経済的復興事業が完成しました。
松井家三代の一貫した努力により、武士中心の祭礼が町衆・百姓衆が参加し、天下太平を楽しむ祭礼へと転換してきたといわれます。妙見宮祭礼が九州三大祭の随一とうたわれましたのは、この元禄以後の祭礼行列を指したものといわれています。
松井家に伝わる行列絵巻によると、道筋を浄める役の獅子2疋にはじまり、木馬12頭・鉄砲隊・長柄槍隊・老若男女の白和弊・弓矢・花奴・飾馬・対の挾箱・神宮寺執行僧の駕籠・宮之町の笠鉾・猿田彦神・神馬・神幸奉行・対の御槍・金幣・さしば・長刀・御太刀・白丁組がお供をする神輿・神主・社僧・飾馬・町衆の笠鉾8基・亀蛇・流鏑馬など大変豪華なものでした。
明治維新以降、神宮寺社僧・鉄砲隊・槍隊など行列から姿を消したものがありましたが、昭和35年にはこの神幸行列が熊本県指定無形民俗文化財として指定され、さらに現在は「ふるさと創生事業」として、神幸行列の復元や修復等が行われ、住時の豪華な行列が再現されました。
祭礼日は江戸時代まで旧暦10月18日に行われていましたが、明治以降は新暦11月17日に「お下り」、18日に「お上り」と定着していました。しかし、社会情勢の変化に伴い平成5年から11月22日「お下り」、23日「お上り」と変更されることになりました。
八代神社の屋根を飾る亀蛇瓦 |
元禄時代の妙見宮の様子 |